投手としては恵まれない体格にもかかわらず、プロ通算173勝を挙げた名投手。
野球に対する真摯な姿勢でも知られ、多くの人の尊敬を集めた。
1983年、PL学園高校に進学し、1年生時からエースとして活躍。
以来、甲子園に出場可能な5回全てに出場。
甲子園での通算勝利数は1位の20勝。甲子園通算本塁打数は歴代2位の6本。
1985年、ドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。
いわゆるKKドラフト事件が世間を騒がす。
1987年、最優秀防御率、沢村賞を獲得。
1988年、球団史上最年少の20歳0カ月で開幕投手を務める。
1994年、最多奪三振のタイトルを獲得。セ・リーグ最優秀選手 (MVP) に選出。
2002年、最優秀防御率を獲得。
2006年12月、アメリカ、メジャーリーグのピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約。
2007年6月、メジャー昇格。39歳70日でメジャーデビュー。
8月、戦力外通告を受け退団。
2008年1月、再びパイレーツとマイナー契約。
3月、現役引退。
2009年、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程1年制コースに入学。
2013年1月、東京大学硬式野球部の特別コーチに就任。
2014年、東京大学大学院総合文化研究科に入学。
「大魔神」の異名で知られた抑え投手。
150km/hを超えるストレートと、わかっていても打てないフォークボールを武器に、MLB通算129セーブ、日本通算252セーブを記録した。
1983年、東北高校に進学。
2年の夏からエースとして3季連続甲子園大会に出場。
1986年、東北福祉大学へ進学。
2年時、3年時に全日本大学野球選手権大会で準優勝。
1989年、ドラフト会議で横浜大洋ホエールズから1位指名を受け、入団。
1991年、抑えに定着。
1992年、最優秀救援投手を獲得。
1995年、初の30セーブ、防御率1点台を記録。最優秀救援投手を獲得。
1996年、2年連続で最優秀救援投手を獲得。
1997年、3年連続で最優秀救援投手を獲得。
1998年、45セーブ、防御率0.64を記録し、4年連続で最優秀救援投手を獲得。
チームもセ・リーグ優勝、日本一を達成した。MVP、正力松太郎賞、日本プロスポーツ大賞を受賞。
「ハマの大魔神」が新語・流行語大賞を受賞。
1999年シーズンオフ、FA権を行使してメジャーリーグのシアトル・マリナーズと契約。
2000年、メジャー新人記録の37セーブ(当時)を記録。アメリカンリーグ新人王に選出。
2001年、45セーブを挙げ、リーグ2位。
2002年、史上最速となるメジャー通算160試合目での通算100セーブ到達を達成。
2003年、シーズン終了後マリナーズを退団。
2004年、横浜に復帰。
現役引退後は、野球評論家として活動している。
150km/hを超す直球とキレのある変化球で広島の投手陣を支えた好投手。
高校時代は、島根県屈指の投手として注目を集めた。
高校卒業後、NTT中国野球部に入部。
1989年、ドラフトで広島東洋カープから1位指名を受け、入団。
1990年、プロ1年目で二桁勝利・二桁セーブを記録。セントラル・リーグ会長特別賞を受賞。
1991年、17勝、防御率2.44を記録。最多勝利、最優秀防御率、シーズンMVP、沢村賞、ベストナイン(最優秀投手)を獲得。
1992年、12勝をマークし、プロ入り以来3年連続2桁勝利を達成。
1999年、ノーヒットノーランを達成。
2003年、100勝100セーブを達成。
2007年、現役引退。
現役引退後は、野球解説者として活動している。
強力な阪神リリーフ陣の1人として活躍したアンダースロー。
高校時代は、東北高校で佐々木主浩の控え投手であった。
高校卒業後、法政大学へ進学。
エースとしてリーグ4連覇に貢献。
1989年、ドラフトで阪神タイガースから1位指名を受け、入団。
1996年、リーグ最多の63試合に登板。
2000年、「野村スペシャル」などといわれた遠山との変則的な登板が話題となった。
2002年、投手コーチ兼任選手となる。シーズンオフに現役引退。
2003年、二軍投手コーチ就任。
2009年、スカウトへ転任。
松井秀喜キラーとして知られたリリーフ左腕。
1985年、ドラフトで阪神タイガースから1位指名を受け、入団。
1990年、シーズンオフにトレードでロッテ・オリオンズに移籍。
1995年、外野手に転向。
1997年、シーズン終了後に自由契約となる。阪神の入団テストを受け、投手として合格し入団。
1999年、サイドスローへ転向。左打者へのワンポイントリリーフとして活躍。
巨人の松井秀喜を徹底的に抑え込み、「松井・高橋キラー」と呼ばれた。
2000年、「遠山・葛西スペシャル」で話題に。
2002年、戦力外通告を受け、現役引退。
2005年、阪神タイガースの二軍投手コーチに就任。
2012年、野球解説者として活動。
「わかっていても打てない」と言われた速球で活躍したサウスポー。
1986年、高校卒業後、社会人野球の新日鐵光に入社。硬式野球を始める。
1991年、ドラフトで千葉ロッテマリーンズから2位指名を受け、入団。
1992年、1年目から抑えに定着。
1999年、シーズンオフにトレードで巨人に移籍。
2004年、シーズン途中にトレードで日本ハムに移籍。
シーズンオフに自ら申し入れ、自由契約に。
トライアウトに合格し、楽天へ入団。
2007年、通算500登板を達成。
シーズンオフに戦力外通告を受け、現役引退。
現役引退後は、ジャイアンツアカデミーの講師を務めている。
1987年、ドラフトで阪神タイガースから1位指名を受け、入団。
1992年、トレードでオリックス・ブルーウェーブへ移籍。
1993年、17勝を挙げ、最多勝を獲得。
1995年、1試合19奪三振の日本新記録を樹立。
3年連続となる2桁勝利と200奪三振を達成し、チームも優勝。
2000年、戦力外通告を受け、現役引退。
現役引退後は、野球解説者・コーチ、実業家として活動している。
キレの良い速球と変化球で活躍した本格派。
高校時代は、伊野商業高校で2年生からエースを務める。
3年春に選抜高校野球大会で優勝。
高校卒業後、社会人野球のNTT四国に入社。
1988年、ドラフトで西武ライオンズから1位指名を受け、入団。
東尾修の背番号21を継承。
1989年、プロ1年目から先発に定着し、10勝を挙げる。
1990年、13勝をマーク。
1991年、新人から3年連続となる二桁勝利を記録。最優秀防御率を獲得。
1993年、シーズンオフにトレードでダイエーに移籍。
1996年、サイドスローへ転向。
1997年、シーズンオフに金銭トレードで西武に復帰。
1998年、現役引退。
・入来智 兄弟で読売ジャイアンツに所属した投手。
・東瀬耕太郎 5球団で活躍した変則左腕。
・松田慎司 ワンポイントリリーフで活躍したサウスポー。
・小林至 東京大学出身の左腕。引退後にMBAを取得。江戸川大学教授。
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